合気道とラグビーを貫くもの 次世代の身体論
第1章 身体とコミュニケーション
第2章 身体と師匠
第3章 身体と感受性
合気道の達人・内田樹とラグビー元日本代表・平尾剛。
まったく違うスポーツ経験を持つふたりが、イチロー、マラドーナ、スパルタ軍など、四方八方に話題を飛ばし、身体コミュニケーションの重要さを説き明かす。
身体を通して時代を読む 武術的立場
武術の智慧がこの国の歪みを糾す!
学校教一句の改革、日本的組織の欠陥、若者の知的な問題点、飽食と生きる意欲のジレンマなど、縦横無尽に語りつくす憂国的武術対談。
いまや武術、スポーツ界のみならず介護、教育、工学の世界からも注目を浴びる武術研究者・甲野善紀と、現代思想の研究者にして合気道六段の内田樹が、武術家としての知見をもとに「日本はこのままでよいのか!」と大放談。
第1章 自己をみつめる方法としての武術
第2章 生き延びるための力
第3章 師は何も教えず、弟子は学ぶべきものを学ぶ
第4章 「学び」とは別人になること
第5章 進化の仕方を進化させる
第6章 「生きている実感」に火をともす
第7章 フィジカルに沁み込むことばを
第8章 あらゆる社会制度の分岐点で
身体知 身体が教えてくれること
『「おじさん」的思考』の内田樹VS『オニババ化する女たち』の三砂ちづるが語り尽くす身体的思考に基づく新しいコミュニケーション論。
「身体知」という言葉を使うと、「脳の司る知的活動」に対して、「身体の司る知的活動」というものを二極的に考想する読者が多いと思う。
けれども、そのような理解の仕方には若干の留保が必要だと思う。
「身体知」は「身体が行う知的判断」や「身体から発信されるメッセージ」を意味する。
そして、それが「知的判断」や「メッセージ」である限り、判断を吟味し、メッセージを解読するのはすぐれて知的な活動であり、それに脳が介在しないということはありえない。
身体と脳の二元論はわかりやすい図式だけれども、濫用することは自制するほうがいいだろうと思う。
脳が介在しない純然たる自律的な身体的経験(細胞の分裂とか腸の蠕動とか)には、人間的境位ではほとんど意味がないからである。
内田先生のブログにて2004年12月12日に「三砂先生と会う」というエントリーがあるので参考までに。
また、2004年9月27日版もあります。
身体(からだ)の言い分
・読み : からだのいいぶん
・著者 : 内田 樹,池上 六朗
・発行 : 毎日新聞社
・発行日 : 2005/07
・ジャンル : 身体論
・サブタイトル : Right time,right place
・定価 : 1,575円
プロセスを見よ
企業における品質管理がそうなんですけど、最終品の品質について1つ1つ精査することはできない。だから製品の品質をどうやって管理するか、その管理工程の機能をチェックする。
アウトカムではなくプロセスを見るわけです。
人間の体だって部分を見たら、六十兆からの細胞があるわけで、六十兆をぜんぶ精査するのは不可能です。(中略)見なければならないのは、個々の細胞の具体的なダメージではなくて、プロセスがうまく機能していないのはどの点かということですから。どういう挨拶をしてどんな表情で、どんな歩き方で部屋に入ってきたのかを見るだけで、その人が自分の体をどのようにコントロールしているかがわかっちゃうということだってありうるわけで。その人自身の無意識の身体操作から体のプロセスもわかってきて、こんな口のききかたをするやつだから、この辺がおかしいんじゃないの(笑)、というね。
チャンスはつかむものではない、やってくるものである
仕事って「これ、やってくれる?」ってあっちからくるもので、「これ、やらせてください」って自分から言うものじゃないと思うんですよ。本来は。「あなた、これをやってください」って向こうからいってくるわけですけれど、何でそんなことを言うのかと思うと、「あなたなら、これできると思って」というわけです。この「あなたなら、できるんじゃないの」という評価をもって社会的承認というのであって、ドアをこじ開ける力のことを言うわけではないんです。ドアは向こうからしか開かないし、梯子は上からしか下りてこない。それを自分で「ステップアップ」とか言って、あたかも梯子を自力でかけて自力で上がれるかのような幻想をふりまいて、「成功のドアを開けよう」なんてとんちんかんなことを言っている。(笑)成功のドアは向こう側からしか開かないし、ステップアップの梯子は上からしか下りてこない。
(中略)何か縁があって触れた仕事というのは、無意味に触れてくるわけではないから、自分が必ずできる仕事なんです。そんな時に臆病風に吹かれて一歩引いてしまったらだめなんですよ。せっかく扉がひらいたんだから、入ればいいんですよね。そこへ。
(中略)でもおもしろいことに、若い人で「扉が開いた」そのチャンスの時に、ぴょんと飛び込む人ってほんとに少ないんですよ。ほとんどの人は扉が開いた時には、おびえて後ずさってしまう。「ぼくにはまだそんな準備はできてませんから」とか遠慮して。そんなのわかってるって(笑)。わかった上で「やらない?」と訊いてるのに。結局、キャリアの扉は自分で開けるものだと思っているんですよ。
死と身体
・読み : しとしんたい
・著者 : 内田 樹
・発行 : 医学書院
・発行日 : 2004/09
・ジャンル : 身体論
・サブタイトル : コミュニケーションの磁場
・定価 : 2,100円
<ことば>の通じない「死」と「身体」の世界こそが、人をコミュニケーションへと駆り立てる。
・・・・えっ?
「誰もが感じていて、誰も言わなかったことを、誰にでもわかるように語る」著者の学校では絶対に教えてくれないコミュニケーション論。
読んだ後、猫にも挨拶したくなります。
人間は、死んだ者とも語り合うことができる。
私の身体は頭がいい
・読み : わたしのからだはあたまがいい
・著者 : 内田 樹
・発行 : 新曜社
・発行日 : 2003/05
・ジャンル : 身体論
・サブタイトル : 非中枢的身体論
・定価 : 1,890円
「合気道とは身体感受性を高め、身体を賢くするエクササイズです。一を聞いて十を知る賢い身体をつくること、それが稽古の目的なのです。」合気道のような形稽古の場合は、師範に教わった形のなかにあらかじめ必要な情報は書き込まれている。術理は、私が知らなくても、私の身体が知っている。自分の身体が無意識に行う動きの意味を反省的に解釈すれば、術理は自ずからみえてくるのである。武道は、「見えない動き」、つまり訓練されていないものの眼には有意的な記号として理解されないような動きのできる身体を練り上げていくことをその重要な修行上の課題としている。武道的な「強さ」あるいは「速さ」というものは、物理的に定量できるものではない。そうではなくて、通常の人間の意識や感覚では、「記号的に分節することのできない」動きを、武道は「速い」動き、あるいは「厳しい」動きとみなすのである。人間の眼は非常に速い動きまで捕捉できる。TVゲームのシューティング・ゲームでは小学生でも動体視力の限界近い速さで動く標的を撃墜することができる。TVゲームの標的の動きは一定のパターンに従ってしか動かないからである。パターンを理解し、標的の「拍子に乗る」ようにすれば、どれほど物理的に速い動きも捕捉可能である。
私たちが一個人として世界に対峙しているという「モナド」主義的な発想をしている場合、「私の重荷」は私一個のものである。私がリラックスしていようとしていまいと、私が絶好調であろうと絶不調であろうと、それはすべて「私の荷物」である。これを分割してしまうのである。私の荷物は他人にかついでもらい、他人の荷物は私がかつぐ。これが burden sharing である。多くの人々は、他人の荷物は重たく、自分の荷物は軽いと思っている。それは違う。逆である。自分の荷物は重たいが、他人の荷物は軽い。私が言っているのではない。レヴィ=ストロースがそう言っているのである。「人間は自分の望むものを他人に与えることによってしか手に入れることができない」。だから、楽になりたかったら、自分の荷物を放り出して、他人の荷物を担げはいいのである。別に「同じ重さの荷物を担げ」とは誰も言っていない。自分の荷物を放り出すくらいだから、相当「お疲れ」に決まっている。自分の肩から荷物をおろしたら、そこらの誰かの、てごろな荷物(風呂敷1つとか筆箱1つとか)をもって歩けばよろしい。ものが軽いだけに、そのうちに、だんだん体調が回復してくるから、そしたら、ちょっとずつふやしてゆけばよいのである。そんなことをしたら、重い荷物ばかり担いでいる人と、軽い荷物ばかり担いでいる人が出てきて、不公平になるんじゃないかとご心配の方もおられるだろう。あのねー。そういう発想そのものが「モナド」主義的なのよ。「荷物の重さ」というのは、「幻想」なの。そんなもの「実体」としては存在しないのである。「重い」と思えば「重く」、「軽い」と思えば「軽い」。「軽い」荷物はいくらかついでも「軽い」。自分の荷物の重みは、その人が「他人の荷物を代わって担ぐ」という決断をした瞬間に消えるのである。だが、自分の荷物の重さに囚われている人は、そのことになかなか気づかない。それだけが重みから開放される方法なのに。









