他者と死者
・読み : たしゃとししゃ
・著者 : 内田 樹
・発行 : 海鳥社
・発行日 : 2004/10
・ジャンル : レヴィナス
・サブタイトル : ラカンによるレヴィナス
・定価 : 2,625円
レヴィナスやラカンのようなスケールの思想家の考えていることは長い船体を持つ船に似ている。まず船首が見えて、それが視野を通過し、ずいぶんたってからようやく船尾が見えてくるが、そのときはもう船首は視野の外なのだ。
巨大なスケールの思想については、私たち凡人は決して「一望俯瞰的」に語ることができない。そこにはどうしても「時間」という要素が必要になる。長い時間をかけて思考の歴程をたどるという忍耐強い作業が必要になる。
読み始めたときにはその意味を知らなかった概念が血肉化され、それまでの常識が放棄されていくという自己変容のプロセスを経験しなければならない。
本書で試みるのは、レヴィナスという「何を言っているのか、よくわからない思想家」の言い分とラカンという「さらに何を言っているのか、よくわからない思想家」の言い分を両論併記しているうちに、いつのまにか合意が成るのを待つ、という時間のかかる読解戦略である。
しかし、このような戦略が本当に有効なのかどうか、私に自信があるわけではない。しかし、この読みがうまくゆかなくても、それで失われるのは、私と読者の時間だけであり、読者がご自分の貴重なお時間をどう浪費されようと、私は容喙する立場にないのである。
レヴィナスと愛の現象学
この本の著者はレヴィナスの「研究者」ではない。レヴィナスの「弟子」である。
自分でそう僣称しているが、レヴィナス先生ご本人に公認してもらったわけではないので、「自称弟子」である。ベルナール=アンリ・レヴィも「自称弟子」であり、自分の本に勝手に「わが師、レヴィナス」と書いたりしているが、レヴィナス先生は「彼は弟子ではないです。困るよね、勝手に名乗られては」とおっしゃっておられた。もし、いま先生がご存命であって、誰かが「日本のウチダというものが弟子を称しておりますが」と尋ねたら、おそらく眉をひそめられるであろう、その程度の弟子である。
師とは私たちが成長の過程で最初に出会う「他者」のことである。
師弟関係とは何らかの定量可能な学知や技術を伝承する関係ではなく、「私の理解も共感も絶した知的境位がある」という「物語」を受け容れる、という決断のことである。
言い換えれば、師事するとは、「他者がいる」という事実それ自体を学習する経験なのである。
本書は、ひたすら老師の叡智を称えるためだけにかかれたものである。
だから、論述は徹底的にレヴィナスに「肩入れ」しており、レヴィナスと意見が食い違う人、レヴィナスを批判する人は、かなり剣呑な扱いを受けている。そういう点では、バランスのよくない書物である。けれども、崇敬の念というものを一度抱いてしまうと、人間なかなか冷静にはなれないものである。





