こんな日本でよかったね

ひとりでは生きられないのも芸のうち
こんな日本でよかったね─構造主義的日本論

・読み : こんなにほんでよかったね
・著者 : 内田 樹
・発行 : バジリコ
・発行日 : 2008/7/9
・定価 : 1,680円

日本社会の諸問題に対し、「人類学的叡智」でお答えましょう。

「少子化問題」は存在しません!

「根本的な変革」はしてはいけない!

「格差社会論」に基づく社会改良政策は、ますます「金で苦労する人」を増やすだけ!

日本は「辺境」で「属国」、それで何か問題でも?

日本がこれから目指すべきは、「フェミニンな共産主義」です!

そんなバカな!と感じた方は、ぜひ本書をお読みください。
あまりの暴論ぶりに思わず説得されるはずです。

日常的な現象の裏に潜む本質的「構造」を問題にする、“寝ながら学んだ”構造主義者・ウチダ先生による、目からウロコの日本社会論。これが日本の生きる道?



ひとりでは生きられないのも芸のうち

ひとりでは生きられないのも芸のうち
ひとりでは生きられないのも芸のうち

・読み : ひとりではいきられないのもげいのうち
・著者 : 内田 樹
・発行 : 文藝春秋
・発行日 : 2008/1/30
・定価 : 1470円

性的階層格差にひと言! 強者だけが勝ち続ける「合コン」ってどうなんでしょう!? CanCam的めちゃモテ戦略から夢の少子化対策まで、非婚・晩婚化時代を斬る!


村上春樹にご用心

村上春樹にご用心

・読み : むらかみはるきにごようじん
・著者 : 内田 樹
・発行 : アルテスパブリッシング
・発行日 : 2007/9
・定価 : 1680円

ベストセラー『下流志向』のウチダ教授が村上文学の秘密をついに解きあかす!
村上春樹はなぜ世界中で読まれているのか?
デビューから『アフターダーク』までを貫くモチーフとは?
なぜ文芸批評家から憎まれるのか?
村上春樹が発する倍音とは?
雪かき仕事はなぜ世界を救うのか?
だれにも書けなかった目からウロコの村上春樹論登場!



狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

・読み : おおかみしょうねんのぱらどくす
・著者 : 内田 樹
・発行 : 朝日新聞社出版局
・発行日 : 2007/1
・定価 : 1470円

政府の「教育再生会議」には任せておけない!

独特の発想と軽妙な文章でファンの多い著者の教育論をまとめた一冊。
学力低下から教育格差、大学の倒産、私立小学校まで、ニッポンの教育の現状を独自の感性で鋭くえぐる。
学力低下は日本人全員が同罪、路頭に迷う高学歴失職者たち、上野千鶴子って誰ですか、石原慎太郎の粗雑な文章、早稲田の受験生をなめたパブリシティ、1966年の日比谷高校生など。



下流志向

下流志向

・読み : かりゅうしこう
・著者 : 内田 樹
・発行 : 講談社
・発行日 : 2007/1
・定価 : 1470円

日本の子どもたちの勉強時間は年々短くなり、いまや世界でも最低水準になってしまった。彼らは、積極的に「学び」から逃避している。

その結果が学力低下を招いているのである。
また、若者たちも「労働」から逃避している。

85万人といわれるニートは、自らの意思で知識や技術を身につけることを拒否して、自分探しをしながら階層下降している。

格差社会ニッポンのなか、逃げ続ける新しいタイプの弱者たち。
このままでは日本社会に未来はない。

なぜこのような事態が訪れたのか、処方箋はあるか──いまもっとも注目される論者が、難問に挑む!



東京ファイティングキッズ・リターン

東京ファイティングキッズ・リターン

・読み : とうきょうふぁいてぃんぐきっず・りたーん
・著者 : 内田 樹 ,平川 克美
・発行 : バジリコ
・発行日 : 2006/11
・定価 : 1575円

ともに1950年生まれ、筋金入りの団塊世代で元全共闘、現在文武両道学者&経営者の二人による、無手勝琉ダイアローグ・エッセイが帰ってきた。

ニート・フリーター問題も、市場至上主義も、ナショナリズムも、グローバリズムも、まとめて「ぱあん」とお説教。
老いや成熟とは無縁、いつまでたっても「転がる石」の生き方を貫く「悪い兄たち」の声に、いまこそ耳を傾けよ。

ニート・フリーター問題も、ナショナリズムも、グローバリズムもまとめてお説教。老いや成熟とは無縁、いつまでたっても転がる石の生き方を貫く、本物のワルのダイアローグ。
『ミーツ・リージョナル』連載ほかを単行本化。

東京ファイティングキッズ」の続編。



態度が悪くてすみません

態度が悪くてすみません

・読み : たいどがわるくてすみません
・著者 : 内田 樹
・発行 : 角川書店
・発行日 : 2006/04
・定価 : 760円

相手に「すみません」と言わせたらアウトです。
みなさんも誰の口からであれ、「すみません」ということばを引き出してしまったときには、少し緊張した方がいいと思います。「あなたが何を言いたいか、何を考えているか、私にはもうわかっている」という対話を遮断するシグナルなんですから・・・

現代思想界の旗手が、社会システム論、死生観、人生観を通じて、自分の内なる「他者性」と「未知」と向き合い、時空間での自己マッピング力を身につけることの重要性を説く。生きづらさに悩む人に贈る出色エッセイ。

本書は、内田先生がいろいろなところで書かれた(注文を受けて書いた)原稿を集めたものです。
いつものブログからの切り貼りとはちょっと違った印象ですね。
結構、出典不明のものもあるみたいですが、いろいろなテーマで字数制限のある中で書かれた内容なので、違った一面が読み取れるかと思います。
全部で37編のエッセイ。

・時の守護者 : 出典不明
・「合理的な人」は結婚には向かない : 「ダカーポ」の結婚特集号らしい
・シャイネスの復権 : 出典不明
・若い人と話が通じないと思ったらどうすべきか : 「プレジデント」2006/1/30
・語法の檻 : 「潮」2006/1月号
・喫煙の起源について : 「BRUTUS」2005/3/1
・待つことの功徳 : 「共同通信」2005/8頃
・コミュニケーション失調症候群 : 「Emergency care」2005/7月号
・喧嘩の効用 : 「月刊少年育成」2005/10月号
・ご飯はえらい : 出典不明
・言語と身体 : 「作文と教育」2004/6月臨時増刊号
・響く声・複数の私 : 「化粧文化」2004/6/10
・大学のダウンサイジング : 出典不明
・哀しみの平成無責任男 : 「キネマ旬報」
・「排毒」という物語 : 「AERA」2005/4/4号
・天皇制と芸能者 : 3年ほど前に通信社に・・・
・フリーターが危ない : 「知のwebマガジンen」2005/11月号
・「老齢」を迎えたアメリカ : 出典不明
・池上先生のこと : 「自然法則がカラダを変える!三軸修正法」の解説
・甲野先生の不思議な趣味 : 出典不明
・知性が起動する瞬間 : 出典不明
・しあはせ考 : 「共同通信」2005年夏
・私はどうして散歩をしないのか : 「wandel」2005年秋号
・漫画を読もう! : 「Meets Regional」2005/11月号
・本が読む : 出典不明
・フランス語と私の切ない関係 :「ふらんす」
・私のハッピー・ゴー・ラッキーな翻訳家人生 :「DHC 通信教育テキスト 読み物ページ」
・断固たる曖昧さ : 出典不明(読書人or図書新聞)
・証言と主体 : 出典不明
・速度と祝福 : 出典不明
・脱力する知性 : 「人はなぜ学歴にこだわるのか。」解説
・史上最強の批評家装置「タカハシさん」 : 「現代詩手帖」2003年
・卑しい街の騎士 : 「敗戦後論」解説
・ごく私的な解説 : 「構造主義とは何か」解説
・大瀧詠一の系譜学 : 「ユリイカ」9月号 特集・はっぴいえんど
・支社の無権利 : 「朝日新聞」2005/8/30夕刊
・生と永遠 : 出典不明



健全な肉体に狂気は宿る

健全な肉体に狂気は宿る

・読み : けんぜんなにくたいはきょうきはやどる
・著者 : 内田 樹,春日 武彦
・発行 : 角川書店
・発行日 : 2005/08
・ジャンル : エッセイ
・サブタイトル : 生きづらさの正体
・定価 : 760円

自分の身に起きている事柄には、「バリ」というか「バグ」というか、そういう「まだことばにできないような何か」、「できあいのストーリーでは説明できない余剰」があるわけでしょう。むしろ、その割り切れないところにその人の個性とか、スキームを書き換えるときの足がかりになるようなヒントがあったりすると思うんですけど、「バグ」や「ノイズ」を全部切り捨てて、できあいのチープでシンプルなソリューションに飛びついてしまう。
これって、バランスを崩した人が、池の真ん中の小さな石の上にパッと飛び移ったようなもので、たしかに当面の足場はあるけれど、そこから先はもうどこにも行けないし、元へも戻れなくなっている。問題の解決を急いで安手のソリューションに飛びつくとむしろ「出口なし」ということになりそうな気がするんです。

そういう行き止まり状況を打開して、そこから脱出するための手がかりというのは、実は自分の中にしかないんです。自分の中にあるほんとうに個性的な部分、誰にも共有されない部分、誰にもまだ承認されていないような傾向、そういうものしか最終的には足場には使えないとぼくは思うんです。
その誰にも共有されないもの、自分がほかならぬこのような自分であることを決定づけるような特異点を、何とかして主題化・言語化することで、自分がこの世界に存在することの必然性みたいなもの、宿命的なものを感知できる。そのときにはじめてそういう行き止まり状態から出られると思うんです。

解決を急がないで、不決断にとどまるということは、たしかに気分が悪いことではあるんです。何だかわからないものに遭遇したときの「気分の悪さ」を解消するためには、2つしか方法がないんです。
1つは「なかったことにする」。これが安易な解決方法ですね。
もう1つは「理解するために、自分自身の知的OSをバージョンアップする」。
こちらは時間はかかるし、知的負荷もきつい。でも、ある知的なフレームワークから別のフレームワークに移行する過程においては、そのどちらも無効であるような「真空地帯」があるのは仕方が無いんです。ある秩序から次の秩序へシフトするあいだの一時的な「酸欠状態」を何とかノンブレスでしのぐ力を、僕は「知的肺活量」と呼んでいる。その知的肺活量がすごく下がっていると思うんです。



14歳の子を持つ親たちへ

14歳の子を持つ親たちへ

・読み : じゅうよんさいのこをもつおやたちへ
・著者 : 内田 樹,名越 康文
・発行 : 新潮社
・発行日 : 2005/04
・ジャンル :エッセイ
・定価 : 714円

コミュニケーションの現場では、理解できたりできなかったり、いろんな音が聞こえているはずなんです。それを「ノイズ」として切り捨てるか、「声」として拾い上げるかは聞き手が決めることです。
そのとき、できるだけ可聴音域をできるだけ広げて、拾える言葉の数を増やしていく人がコミュニケーション能力を育てていける人だと思うのです。
もちろん、拾う言葉の数が増えると、メッセージの意味は複雑になるから、それを理解するためにフレームワークは絶えずヴァージョンアップしていかないと追いつかない。それはすごく手間のかかる仕事ですよね。そのとき、「もう少しで『声』としてこえるようになるかもしれないノイズ」をあえて引き受けるか、面倒だからそんなものは切り捨てるかで、その人のそれから後のコミュニケーション能力が決定的に違ってしまうような気がする。

教育問題の根本には、「自分の意見をはっきり言いなさい」という強制がある。そういうことを子供に強制するのはほとんど罪悪だと思うのです。
むしろ言葉に詰まる子に対して、いくら言葉につまっても構わない、先生は待っててあげるから大丈夫だよ。と告げることのほうが優先順位の高い教育課題じゃないですか。人前で語るとどうしても恥ずかしくて言葉がつまっちゃう子供に「シャイネスというのは美徳なんだよ」と言ってあげること。
あるいは、中途半端な言い方をしてしまって、「こんな言葉づかいじゃ、僕の気持ちが伝えられない」とすぐに前言撤回しちゃうので、話がグルグル回るばかりで、さっぱり結論に至らないというような、そういう子供に対しては、そういう時こそコミュニケーション能力が飛躍的に成長するプロセスを通過しつつあるんだということを、忍耐強く見て取ってあげないといけないと思うんです。
あと、矛盾するようですけれど、それと同時に、どこかでその終わりなき嘆きを断念することも教えないといけない。100%ピュアな、言葉と思いがぴったりと合致した理想的なコミュニケーションなんてありえない、ということも教えてあげないといけない。
もうこれ以上適切な言い方はみつけられそうもない。このへんで手を打とうという断念もやっぱりコミュニケーションにおいては必要なんです。

自分の思いを適切に伝える言葉に出会うまで、口ごもりながらでもいいから「言葉を捜してごらん」という励ましと、自分の思いを語りきれる言葉に人間は絶対に出会えないんだから、どこかであきらめて「言い切りなさい」という忠告を、子供に対して同時に告げなければいけない。

自分が自分について語ることは、つねに語り足りないか、語りすぎるかどちらかで、自分の思いを過不足なく言葉にできるなんてことは起こりえない。
だから、ぎりぎりのところでそれに触れそうな言葉を次々とつなげていくしか手がない。



先生はえらい

先生はえらい

・読み : せんせいはえらい
・著者 : 内田 樹
・発行 : 筑摩書房
・発行日 : 2005/01
・ジャンル : エッセイ
・定価 : 798円

恋愛が誤解に基づくように、師弟関係も本質的には誤解に基づくものです。

資格を取るとか、ナントカ検定試験に受かるとか、免状を手に入れるとか、そういうことは、「学び」の目的ではありません。「学び」にともなう副次的な現象ではありますけれど、それを目的にする限り、そのような場では、決して先生に出会うことはできません。

先生というのは、「みんなと同じになりたい人間」の前には決して姿を現さないからです。

書物を経由しての師弟関係というのはもちろん可能ですし、TV画面を見て、「この人を先生と呼ぼう」と思うことだって、あって当然です。
要するに、先生が私のことを知っていようが知っていまいが、私の方に「この人の真の価値を知っているのは私だけだ」という思い込みさえあれば、もう先生は先生であり、「学び」は起動するのです。

学びには2人の参加者が必要です。送信するものと受信するものです。そして、このドラマの主人公はあくまでも「受信者」です。
先生の発信するメッセージを弟子が、「教え」であると思い込んで受信してしまうというときに学びは成立します。「教え」として受信されるのであれば、極端な話、そのメッセージは「あくび」や「しゃっくり」であったってかまわないのです。「うそ」だってかまわないのです。

私たちが敬意を抱くのは、「生徒に有用な知見を伝えてくれる先生」でも「生徒の人権を尊重する先生」でも「政治的に正しい意見をいう先生」でもありません。
私たちが敬意を抱くのは、「謎の先生」です。
「謎の先生」はその有用性がすでにわかっている技術や知識を私たちに伝える人ではありません。彼が伝えるものの価値が私たちにすでに知られており、それに対して私たちが対価を提供しうるような教師は「謎を蔵した人」とはみなされません。
その人がいったい何を知っているのか私たちには想像が及ばない先生、それが「謎の先生」です。

「謎の先生」の教育的効果について近代日本でもっとも精密な記述を行ったのは、夏目漱石です。漱石の「こころ」と「三四郎」はどちらも「謎の先生」についての話です。
どちらも、十代の男の子が「見た目あまりぱっとしない中年男性を『先生』だと思い込んで、それがきっかけで成長のプロセスがはじまる」という話なんですが、これが、2つとも。
一方は無為徒食の閑人、一方は高校の生徒から「偉大なる暗闇」とあだ名されるほどにぼおっとした何を考えているのかわからない茫洋たるおじさん。
にもかかわらず、漱石は「こういう『おじさん』たちを若い人たちは見つけて、その人を導き手として人間的成長を遂げてください、では、さようなら」と描いて話をさっと切り上げてしまっているのです。ずいぶんですよね。
これでふつうの中学生や高校生に話がわかるはずがありません。
でも、かの文豪がそう書いて筆を置いた以上、これは「それでよい」としなければなりません。

先生というのが本質的に機能的な存在であり、先生を教育的に機能させるのは学ぶ側の主体性であるという逆説を熟知していたジャック・ラカンは、こう述べています。

教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所につれて来られると、すくなくても見かけ上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っているものの立場に立たされている間はつねに十分知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してありません。

弟子は、師は私の知らないことを知っているはずだと想定したことによって、何かを(しばしば師が教えていないことを)学んでしまうのです。そして、何事かを学び得た後になってはじめて、その学習を可能にした師の偉大さを思い知るのです。

学ぶのは学ぶもの自身であり、教えるものではありません。「それが何であるかを言う事ができないことを知っている人がここにいる」と「誤解」したことによって、学びは成立するのです。



東京ファイティングキッズ

東京ファイティングキッズ

・読み : とうきょうふぁいてぃんぐきっず
・著者 : 内田 樹,平川 克美
・発行 : 柏書房
・発行日 : 2004/09
・ジャンル : エッセイ
・定価 : 1,680円

小学校の同級生であり、塾の共同経営者であり、翻訳会社の共同経営者である内田樹氏と平川克美氏の往復書簡風エッセイである。
それぞれの観点から同じ経験を語ったり、若者についてビジネスについて社会についてアメリカについて女性についてなどさまざまなテーマを取り上げつつ、お互いを刺激する文章を交換しあう。そんな1冊。



子どもは判ってくれない

子どもは判ってくれない

・読み : こどもはわかってくれない
・著者 : 内田 樹
・発行 : 洋泉社
・発行日 : 2003/09
・ジャンル : エッセイ
・定価 : 1,575円

論理的に思考するとは、簡単にいってしまえば、今の自分の考えをカッコにいれて機能を停止させるということである。
今の自分の考え方とは、自分にとってごく自然とおもえるような経験や思考の様式のことである。
目の前に問題があって、それがうまく取り扱えないというのは、要するにその問題の解決のためには今の自分の考え方は使い物にならないということである。
それはペーパーナイフでは魚を三枚に下ろすことはできないのと同じである。
使い物にならない道具をいじりまわしていても始まらない。
そういうものはあっさり捨てて、出刃に持ち替えないといけない。
論理的に思考するというのは、煎じ詰めればペーパーナイフを捨てて、出刃に持ち換えるということである。
論理的に思考できる人というのは、手持ちのペーパーナイフでは使えないということがわかった後、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試していることのできる人である。
勤惰わしで鱗をはぎ落とし、柳馬で身をそぎ、刺抜きで小骨を取り出し、骨に当たって刃が通らなければ、かなづちで出刃をぶん殴るような大技を繰り出すことさえいとわないような縦横無尽融通無碍な道具の使い方ができる人を論理的な人というのである。
よく論理的な人を理屈っぽい人と勘違いすることがあるが、理屈っぽい人と論理的な人はまったく違う。
理屈っぽい人はひとつの包丁で全部料理を済ませようとする人のことである。
論理的な人は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである。
今の自分の考えは自前の道具のことである。
ということは、その都度の技術的課題にふさわしい道具とは他人の考え方のことである。
自分の考えで考えるのを停止させて、他人の考え方に創造的に同調することのできる能力を論理性と呼ぶのである。



疲れすぎて眠れぬ夜のために

疲れすぎて眠れぬ夜のために

・読み : つかれすぎてねむれぬよるのために
・著者 : 内田 樹
・発行 : 角川書店
・発行日 : 2003/05
・ジャンル : エッセイ
・定価 : 1,575円

疲れたら、正直に「ああ、へばった!」といって手を抜くちうことは生きるためにはとてもたいせつなことなのです。
疲れるのは健全であることの徴です。
病気になるのは生きている証拠です。
飽きるのは活動的であることのあかしです。
向上心は確かにあるほうがいい。
でもありすぎてはいけない。
人は夢と現実を同時にいきなければなりません。



女は何を欲望するか?

女は何を欲望するか?

・読み : おんなはなにをよくぼうするか?
・著者 : 内田 樹
・発行 : 径書房
・発行日 : 2002/11
・ジャンル : エッセイ
・定価 : 1,890円

私たちは他者の理解と承認を求めて、しばしば自分について語る。正直に、かつ確信を込めて、「私は・・・である」と断定することもある。しかし、経験的に知られているように、そのような自己規定するときに、私の側にはつねに何らかの下心が働いている。「そのような人間」として他者から「承認」を受けたいという欲望が私の語りをコントロールしている。

例えば、私が「私は頭の悪い人間です」というとき「私は自分の知的能力について適切な評価ができる程度には知的な人間です」というメッセージを私は同時に発信している。「わたしは邪悪な人間です」と断言するときは、「わたしは自分の道徳性を過大評価して他者に暴力をふるうほど邪悪な人間ではありません」というメッセージを同時に発信している。私たちは何かをいいながら、同時に「それをいうことによって言いたい別のこと」をも語っている。だから、私たちはコミュニケーションがうまくゆかなくなると、しばしばいらだって、「あなたは、そういうことによって、何が言いたいのか?」という問いを相手に向けることになる。

ラカンはこれを「子供の問い」となずけた。この「子供の問い」に即答できる人はまずいない。なぜなら、ほとんどの人は自分が何を言うためにあることを言っているのか意識することがないからである。私たちが他者に向けて語るとき、どれほど厳密に、どれほど論理的に、どれほど仔細に語ったとしても、語り終えたあと、「で、ほんとうは何がいいたいの?」という「子供の問い」の前に絶句するリスクから逃れられない。これは「語りつつある私」───ラカンはこれを「主体」と呼ぶ────と私の語りの中に登場する「私」───ラカンはこれを「私」と呼ぶ────の間に超えることのできない乖離があることの当然の帰結なのである。人間が自己意識をもつ生物である限り、誰一人この「根源的疎外」の宿命を免れることはできない。

単一のメッセージしか伝達できない物語は質の低い物語である。(それは「プロパガンダ」にすぎない)矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を変えるたびにそのつど別の読み筋が見出せるような物語は「質の高い物語」である。「質の高い物語」は私たちに「一般解」を与えてくれない。その代わり「答えのない問題」の下に繰り返しアンダーラインを引く。私たちは「問題」をめぐる終わりない対話、終わりない思惑へと誘われる。



期間限定の思想

期間限定の思想

・読み : きかんげんていのしそう
・著者 : 内田 樹
・発行 : 晶文社
・発行日 : 2002/11
・ジャンル : エッセイ
・サブタイトル : 「おじさん」的思考〈2〉
・定価 : 1,890円

大好評を博した、よきおじさんとして生きるための必読知的参考書『「おじさん」的思考』に続いて贈る、おじさんエッセイ第2段。成熟した大人である「ウチダ先生」が、現代思想の知見をふまえ、「仮想女子大生」を相手に大人になるための説教十一番勝負。さらに政治家たちの疑惑の構造から外務省の不祥事まで、現代日本の「困った問題」に対しては、目からウロコの暴論奇論で一刀両断。現代思想の研究家であり、武道家であり、全身豆知識とも呼ばれる著者が、その薀蓄を傾けて熱く語る、日本社会への苦言・提言集。

恋について君がほんとうに知りたいこと、そして知るべきことがあるとすれば、それは「いかに華やかに、感動的に、文学的に、恋に失敗することができるか」であり、どうやったら恋を通じて「深く傷つくことができるか」である。なぜなら、「成功した恋」をハッピーに享受することよりも「失敗した恋」に深く傷つくことの方が「より人間的」な経験だからだ。よく考えれば分かることだが、人間はその本質的活動においては「失敗すること」をめざしている。私たちがある種の尊厳を感じるのは、ほとんど例外なくまっすぐ「自分の存在が不要となるために」生きている人である。病苦を根絶して、おのれ自身が不要な存在になる日を夢見ている医者。弟子に持てる技術と知識をすべて伝えて立ち去る師。子どもが誰にも頼らず生きていけるように自立を支援する親。彼らはひとしくおのれを「消し去る」ためにそこにいる。おのれの足場をわが手で掘り崩しながらそこに立っている存在は、切ないほどにリアルだ。恋だっておんなじだ。「ほんとうの恋」とはそれを不可能にする条件だけを選択し続ける、無謀でけなげで哀しい企てだ。だが、「失敗を宿命づけられた企て」以上に私たちの欲望をかき立てるものがこの世に存在するだろうか?

「どうしたらよいか」についての汎通的な判断基準がないときに、なお判断を下さなければならないことは私たちの身にしばしば起こる。そのとき、判断の重みを担保するのは、決断を下した人間が「責任をとること」、ただそれだけである。判断が謝りであったことが事後的に明らかになったら、その責任をとって、粛然と制裁を受ける覚悟がある人間だけが、「マニュアルがない」状況で判断を下すことができる。責任をとれない人間には決断ができない。リスク・テイキングとデシジョン・メイキングは1枚のコインの裏表である。責任を取る人間が、決定権を持つ。決定権は責任によって担保される。そんなのは人間が共同的に生きて行くための基本である。

若いということは、「この人は高い確率で正しい判断を下す人である」という安定した評価を獲得できないということである。生きている時間が短いんだから、仕方がない。だから、気の毒ではあるが、子どもがどれほど正しいことを言っても、まわりの人たちはその主張にほとんど配慮しない。子どもを蚊帳の外に置き去りにしたまま、ものごとがどんどん決まっていく。それを指をくわえて眺めるしかないというのが「子どもであること」、「若いということ」、「非力であること」の哀しさである。それでも自分の主張の正しさを認めさせようと思ったら、もう「怒る」しかない。ぱしっと机を叩いて「いいから、黙って、オレの言うことを聴けよ!」と怒鳴りつけるしかない。怒る以外に手段がないのである。怒りのエネルギーだけが、そのパセティックな「捨て身」の構えだけが、周囲の人間のおしゃべりを一時的に鎮め、そのときだけ、聴衆の注視を確保することができる。「三下が口をはなむんじゃねえ!すっこんでろい!」「ま、いいじゃねえか、マサ。おう、若いの、なんか言いてえことがあるんなら、言ってみな」というような状況になるわけである。そのような怒りのパワーによってとりあえず緊急避難的に与えられた1回だけの「聞き届けられる」チャンスを確実にものにして、「この若いの、なかなかいいこと言うじゃねえか」的にその判断の適切さを承認されることによって、子どもたちは一段階だけ「大人」になる。その発言が適切であったことが結果的に確認されれば、次の機会には、前ほどはげしく怒鳴らなくても、前ほど捨て身で他人の話に割り込まなくても、人々はその人の発言を促し、その言葉に耳を傾けるようになるだろう。そのような小さな努力を積み重ねてゆく以外に、「怒らなくても意見を聞いて貰え」「怒らなくても立場を配慮され」「怒らなくても尊敬される」ポジションに私たちはたどり着くことができない。



大人は愉しい

大人は愉しい

・読み : おとなはたのしい
・著者 : 内田 樹,鈴木 晶
・発行 : 冬弓舎
・発行日 : 2002/06
・ジャンル : エッセイ
・サブタイトル : メル友おじさん交換日記
・定価 : 1,890円

セックスによって相手がどれくらいの快感をおぼえているかは分からない。
よく女の快感は男の十倍だとか百倍だとか言われるが、これは絶対分からない。
男は女に、女は男になれないから、相手の快感を自分も追体験するということができない。
しかし、痛みというものは男女に共通している。
だから相手がどれくらい痛いか、こちらにも分かるのだ。
SMとはそういうコミュニケーションなのだ。
痛さで確かめ合う愛。
性的快感は男女でずいぶん違うが、痛みは同質である。
よって「他人の痛みは分からない」というのは嘘である。
むろん単純な身体的な痛みと、抑圧され差別された者の痛みとは、ずいぶん中身が違います。
では、そうした痛みは分からないかといえば、そうではない。
ただし、それを分かるには想像力が必要である。
以前、女子高校生コンクリート詰め殺人事件があったとき、複数の識者が「最近の若者は過保護のせいで他人の痛みがわからない」という意見を述べていました。
私は、それはまったく間違いだと思います。
その後の取り調べで、加害者の少年たちの中には親に虐待されていた子がいたことが分かりました。
「他者の痛みが分からないから平気で痛めつける」というのは論理的に間違っている。
へんな言い方ですが、他者の痛みが分からなかったら、痛めつけても面白くないじゃないですか。
サディストは、相手がいかに痛い思いをしているか、想像できるから楽しいのです。



「おじさん」的思考

「おじさん」的思考

・読み : おじさんてきしこう
・著者 : 内田 樹
・発行 : 晶文社
・発行日 : 2002/04
・ジャンル : エッセイ
・定価 : 1,995円

「日本の正しいおじさん」の旗色がよろしくない。
「進歩的文化人」は罵倒の枕詞となり、「家父長」は打倒対象となり、「常識」や「社会通念」は反時代的イデオロギーとしてごみ箱に捨てられ「正しいおじさんの常識」はいまや風前の灯火である。
だが本当にその灯を絶やしてしまってもいいのか?
日本が経済的に豊かになる主役として額に汗して働いてきたおじさんたちは急変する価値観、社会情勢のもと、どのような思想的態度で世の中のできごとに対処すべきなのか。
成熟したよきおじさんとして生きるための必読知的参考書である。

人は幸福に生きるべきだ、と人は言う。私もそう思う。でも、たぶん「幸福」の定義が少し違う。そのつどつねに「死に臨んで悔いがない」状態、それを私は「幸福」と呼びたいと思う。幸福な人とは、快楽とは「いつか終わる」ものだということを知っていて、だからこそ、「終わり」までのすべての瞬間をていねいに生きる人のことである、そう私は思う。だから「終わりですよ」と言われたら、「あ、そうですか。はいはい」というふうに気楽なリアクションができるのが「幸福な人」である。「終わり」を告げられてもじたばたと「やだやだ、もっと生きて、もっと快楽を窮め尽くしたい」と騒ぎ立てる人は、そのあと長く生き続けても、結局あまり幸福になることのできない人だと思う。幸福な人は、自分が幸福なだけでなく、他人を幸福にする。だから、私はみんなに幸福になって欲しいと思う。

今の子どもたちに共通する「社会的規範の軽視」「公共性への配慮の欠如」「ディセンシーの欠如」「ほとんど自己破壊的なまでの利己主義」などは、その原型をすべていまの日本の「エリート」層の中に見ることができます。子どもたちは親の真似をし、教師の真似をし、「成功者」たちや、指導者たちの真似をしているにすぎません。逆から言えば、子どもを変える方法は一つしかありません。大人たちが変わればいいのです。まず「私」が変わること、そこからしか始まりません。「社会規範」を重んじ、「公共性を配慮し」、「ディセントにふるまい」、「利己主義を抑制する」ことを、私たち一人一人が「社会を住みやすくするためのコスト」として引き受けること。遠回りのようですが、これがいちばん確実で迅速で合理的な方法だと私は思っています。

就職希望の学生に私がいつもいうことがある。それは企業の知名度や資本金と「職場が楽しい」ことのあいだには何の関係もない、ということである。責任感があって、勤務考課が公正で、仕事のできる上司がいて、愉快な仲間がいれば、どんな単純作業であっても仕事は楽しい。
逆に、無責任で不公平で仕事のできない上司と、感じのわるい同僚に囲まれていれば、どれほど「クリエイティブ」で「先端的」で「ソフィスティケイトされた」仕事をしていても、ぜんぜん楽しくない。「毎日会社にゆくのが楽しみ」であるような仕事を選ぶと楽しいよ。就職活動をしている人たちに言いたいのは、それだけである。

「知識」についていえば、私が持論としているように、そんなものはいくらためこんでも何のたしにもならない。必要なのは「知識」ではなく「知性」である。「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく「魚の釣り方を教える」場所である。自分が何を知らず、何ができないのかを言うためには、自分自身を含むシステム全体についての概括的な「見取り図」を持っていることが必要である。自分がこの社会のどこのポジションにいて、今進んでいる道はどこにつながっているのか。それが分からないものにマッピングはできない。マッピングができないということは、主体性が持てないということである。




ためらいの倫理学

ためらいの倫理学

・読み : ためらいのりんりがく
・著者 : 内田 樹
・発行 : 冬弓舎
・発行日 : 2001/03
・ジャンル : エッセイ
・サブタイトル : 戦争・性・物語
・定価 : 2,100円

・フェミニストが嫌いな理由

私は知性というものを「自分が誤り得ること」についての査定能力に基づいて判断することにしている。
平たくいえば、「自分のバカさ加減」についてどれくらいリアルでクールな自己評価ができるかを基準にして、私は人間の知性を判定している。
さて、私が知っている限り、「自分が間違っている可能性の吟味する」能力を優先的に開発しようとしているフェミニストはほとんどいない。
フェミニストが最優先するのは、「自分の正しさを主張する」能力の開発である。
これから先、男女差別の撤廃のためにさまざまな社会的努力がなされてゆくと思う。
けれどもその成果は、彼女たちが男達を告発し、恫喝し、改悛させることによって獲得したのだと考えてはならないと思う。
様々な社会的不合理を改め、世の中を少しでも住みよくしてくれるのは、「自分は間違っているかもしれない」と考えることのできる知性であって「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。

・男らしさについて

男たちの多くにとって「男」が文化的な虚構であることは周知の事実である。
しかし、問題は男たちがこの虚構をジョークとしてではなく、一種のコンベンションとしてまじめに引き受けているという事実である。
金を借りる時は「男だろ、黙って金くらい貸せ」と押し、返済を迫られたら「男だろ、わずかな金のことでがたがた言うな」とつっぱねるのが借金の定法である。
男たちは「男だろ」の一喝に弱い。
「男だろ」の一言でネゴシエーションの過半は制しうる。
「男だろ」の一言でおのれの財布の中身や相手の主張の不合理性についての判断が停止してしまう「男たち」の思考が本質的に「野生の思考」に属している。
呪術的思考を非科学的・非合理と一笑に付すのではなく、それを世界認識の一形式として、一種の知的操作として認めてほしいと願うのです。

・文明社会について

ロックやホッブスの古典的な説明によれば、文明というのは定義上、「個人が欲望達成と自己実現をとりあえず断念して、それを社会契約に基づく集団の一員として、迂回的に実現する方法を選んだ」時に、つまり「一人の人間であるより前に、集団の一員であること」を優先した時に発生したのである。
それが文明社会である。
文明社会というのは便利な分、抑圧的なものである。
そういう制度の中で長く暮らしていると、対抗的な思想が、抑圧を吹き飛ばし出現するのは、人間にとってきわめて自然なことであると私は思う。
だが、有用ではあるが、それは決して支配的なイデオロギーにはならない質のものである。
それは「異議申し立て」としてのみ有益であり、公認の、権力的なイデオロギーになったとき、きわめて有害なものに転化する、そのようなイデオロギーである。


 
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