はじめたばかりの浄土真宗 (2)
・読み : はじめたばかりのじょうどしんしゅう
・著者 : 内田 樹,釈 徹宗
・発行 : 本願寺出版社
・発行日 : 2005/03
・ジャンル : 浄土真宗
・サブタイトル : インターネット持仏堂 (2)
・定価 : 777円
「欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する」
by レヴィナス
「欲求」と「欲望」、言葉は似ていますが、レヴィナスはこれにまったく異なる定義を与えています。
「欲求」とは「本来あるはずのものが欠如した状態」です。
ですから「欲求」は「現状回復」を求めます。
「欲求は本質的には郷愁であり、ホームシックである」。
言い換えれば、私たちが何かを「欲求する」と言うとき、私たちはすでに自分になにが欠如しているのか知っているということです。
ですから、「知識」とか「スキル」について私たちが欠落感を感じるとしたら、それは「欲求」を有しているということになります。
これに対して「欲望」とは、欠落があることは確かなのだが、何をもってその欠落を埋めることができるのか、そもそも自分が何を求めているのかを言う事ができない、というような欠落の仕方のことです。
「いまだ存在しないもの」の探求、それが欲望です。
愛する人を抱きしめているときに、もし愛撫が「欠如」であるなら、ぎうっと抱きしめたことによって欠如は満たされ、ガソリンを満タンにしたときのように「はい、どうもありがとうございました」といって、ほいほいとどこかへ出かけてしまう。ということが可能なはずです。でも、実際にはそんなことって起こりませんよね。
いくらぎうぎう抱いていても「満たされる」ということは起こりません。
むしろ、自分がどれほどこの人を求めていて、その不在を耐え難く思っているか、ということばかりが身を切り裂くように実感される、というものです(よね)。
というわけで、
欠如が満たされ得るものが「欲求」、欠如が充足されるにつれてますます欠落感が増進するようなものが「欲望」と呼ばれます。
レヴィナスによれば、「善」は「欲求」されるものではなく、「欲望」されるものです。
つまり、私たちが因習的に理解しているように、何をなしたらよいのかがあらかじめわかっていて、そのリストが指示されているとおりにふるまうこと(人に親切にするとかものを盗まないとか)を「善」というのではありません。
善とは、「自分は何をしたらよいのかわからない」のだが、「自分は何をしたらよいのかわからない」という仕方で世界に投じられてあることを「絶対的な遅れ」として引き受け、おのれに「絶対的に先んじているもの」を欲望するという事象そのものを指している。
つまり、善悪にかかわる戒律は、「絶対的に遅れているもの」に「絶対的に先んじているもの」が「贈与」したものであり、それを「遅れているもの」は拒否することができないという物語と込みで与えられているわけです。
ですからむしろ重要なのは、戒律の文言ではなく、神が与えた戒律を人は拒否することができないという「無能の覚知」の方にあると思います。
つまり、善というのは、戒律の「コンテンツ」ではなく、戒律が与えられる「仕方」のことをさす、というのがレヴィナスの「善性」論なのです。
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