私の身体は頭がいい
・読み : わたしのからだはあたまがいい
・著者 : 内田 樹
・発行 : 新曜社
・発行日 : 2003/05
・ジャンル : 身体論
・サブタイトル : 非中枢的身体論
・定価 : 1,890円
「合気道とは身体感受性を高め、身体を賢くするエクササイズです。一を聞いて十を知る賢い身体をつくること、それが稽古の目的なのです。」合気道のような形稽古の場合は、師範に教わった形のなかにあらかじめ必要な情報は書き込まれている。術理は、私が知らなくても、私の身体が知っている。自分の身体が無意識に行う動きの意味を反省的に解釈すれば、術理は自ずからみえてくるのである。武道は、「見えない動き」、つまり訓練されていないものの眼には有意的な記号として理解されないような動きのできる身体を練り上げていくことをその重要な修行上の課題としている。武道的な「強さ」あるいは「速さ」というものは、物理的に定量できるものではない。そうではなくて、通常の人間の意識や感覚では、「記号的に分節することのできない」動きを、武道は「速い」動き、あるいは「厳しい」動きとみなすのである。人間の眼は非常に速い動きまで捕捉できる。TVゲームのシューティング・ゲームでは小学生でも動体視力の限界近い速さで動く標的を撃墜することができる。TVゲームの標的の動きは一定のパターンに従ってしか動かないからである。パターンを理解し、標的の「拍子に乗る」ようにすれば、どれほど物理的に速い動きも捕捉可能である。
私たちが一個人として世界に対峙しているという「モナド」主義的な発想をしている場合、「私の重荷」は私一個のものである。私がリラックスしていようとしていまいと、私が絶好調であろうと絶不調であろうと、それはすべて「私の荷物」である。これを分割してしまうのである。私の荷物は他人にかついでもらい、他人の荷物は私がかつぐ。これが burden sharing である。多くの人々は、他人の荷物は重たく、自分の荷物は軽いと思っている。それは違う。逆である。自分の荷物は重たいが、他人の荷物は軽い。私が言っているのではない。レヴィ=ストロースがそう言っているのである。「人間は自分の望むものを他人に与えることによってしか手に入れることができない」。だから、楽になりたかったら、自分の荷物を放り出して、他人の荷物を担げはいいのである。別に「同じ重さの荷物を担げ」とは誰も言っていない。自分の荷物を放り出すくらいだから、相当「お疲れ」に決まっている。自分の肩から荷物をおろしたら、そこらの誰かの、てごろな荷物(風呂敷1つとか筆箱1つとか)をもって歩けばよろしい。ものが軽いだけに、そのうちに、だんだん体調が回復してくるから、そしたら、ちょっとずつふやしてゆけばよいのである。そんなことをしたら、重い荷物ばかり担いでいる人と、軽い荷物ばかり担いでいる人が出てきて、不公平になるんじゃないかとご心配の方もおられるだろう。あのねー。そういう発想そのものが「モナド」主義的なのよ。「荷物の重さ」というのは、「幻想」なの。そんなもの「実体」としては存在しないのである。「重い」と思えば「重く」、「軽い」と思えば「軽い」。「軽い」荷物はいくらかついでも「軽い」。自分の荷物の重みは、その人が「他人の荷物を代わって担ぐ」という決断をした瞬間に消えるのである。だが、自分の荷物の重さに囚われている人は、そのことになかなか気づかない。それだけが重みから開放される方法なのに。
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