期間限定の思想
・読み : きかんげんていのしそう
・著者 : 内田 樹
・発行 : 晶文社
・発行日 : 2002/11
・ジャンル : エッセイ
・サブタイトル : 「おじさん」的思考〈2〉
・定価 : 1,890円
大好評を博した、よきおじさんとして生きるための必読知的参考書『「おじさん」的思考』に続いて贈る、おじさんエッセイ第2段。成熟した大人である「ウチダ先生」が、現代思想の知見をふまえ、「仮想女子大生」を相手に大人になるための説教十一番勝負。さらに政治家たちの疑惑の構造から外務省の不祥事まで、現代日本の「困った問題」に対しては、目からウロコの暴論奇論で一刀両断。現代思想の研究家であり、武道家であり、全身豆知識とも呼ばれる著者が、その薀蓄を傾けて熱く語る、日本社会への苦言・提言集。
恋について君がほんとうに知りたいこと、そして知るべきことがあるとすれば、それは「いかに華やかに、感動的に、文学的に、恋に失敗することができるか」であり、どうやったら恋を通じて「深く傷つくことができるか」である。なぜなら、「成功した恋」をハッピーに享受することよりも「失敗した恋」に深く傷つくことの方が「より人間的」な経験だからだ。よく考えれば分かることだが、人間はその本質的活動においては「失敗すること」をめざしている。私たちがある種の尊厳を感じるのは、ほとんど例外なくまっすぐ「自分の存在が不要となるために」生きている人である。病苦を根絶して、おのれ自身が不要な存在になる日を夢見ている医者。弟子に持てる技術と知識をすべて伝えて立ち去る師。子どもが誰にも頼らず生きていけるように自立を支援する親。彼らはひとしくおのれを「消し去る」ためにそこにいる。おのれの足場をわが手で掘り崩しながらそこに立っている存在は、切ないほどにリアルだ。恋だっておんなじだ。「ほんとうの恋」とはそれを不可能にする条件だけを選択し続ける、無謀でけなげで哀しい企てだ。だが、「失敗を宿命づけられた企て」以上に私たちの欲望をかき立てるものがこの世に存在するだろうか?
「どうしたらよいか」についての汎通的な判断基準がないときに、なお判断を下さなければならないことは私たちの身にしばしば起こる。そのとき、判断の重みを担保するのは、決断を下した人間が「責任をとること」、ただそれだけである。判断が謝りであったことが事後的に明らかになったら、その責任をとって、粛然と制裁を受ける覚悟がある人間だけが、「マニュアルがない」状況で判断を下すことができる。責任をとれない人間には決断ができない。リスク・テイキングとデシジョン・メイキングは1枚のコインの裏表である。責任を取る人間が、決定権を持つ。決定権は責任によって担保される。そんなのは人間が共同的に生きて行くための基本である。
若いということは、「この人は高い確率で正しい判断を下す人である」という安定した評価を獲得できないということである。生きている時間が短いんだから、仕方がない。だから、気の毒ではあるが、子どもがどれほど正しいことを言っても、まわりの人たちはその主張にほとんど配慮しない。子どもを蚊帳の外に置き去りにしたまま、ものごとがどんどん決まっていく。それを指をくわえて眺めるしかないというのが「子どもであること」、「若いということ」、「非力であること」の哀しさである。それでも自分の主張の正しさを認めさせようと思ったら、もう「怒る」しかない。ぱしっと机を叩いて「いいから、黙って、オレの言うことを聴けよ!」と怒鳴りつけるしかない。怒る以外に手段がないのである。怒りのエネルギーだけが、そのパセティックな「捨て身」の構えだけが、周囲の人間のおしゃべりを一時的に鎮め、そのときだけ、聴衆の注視を確保することができる。「三下が口をはなむんじゃねえ!すっこんでろい!」「ま、いいじゃねえか、マサ。おう、若いの、なんか言いてえことがあるんなら、言ってみな」というような状況になるわけである。そのような怒りのパワーによってとりあえず緊急避難的に与えられた1回だけの「聞き届けられる」チャンスを確実にものにして、「この若いの、なかなかいいこと言うじゃねえか」的にその判断の適切さを承認されることによって、子どもたちは一段階だけ「大人」になる。その発言が適切であったことが結果的に確認されれば、次の機会には、前ほどはげしく怒鳴らなくても、前ほど捨て身で他人の話に割り込まなくても、人々はその人の発言を促し、その言葉に耳を傾けるようになるだろう。そのような小さな努力を積み重ねてゆく以外に、「怒らなくても意見を聞いて貰え」「怒らなくても立場を配慮され」「怒らなくても尊敬される」ポジションに私たちはたどり着くことができない。
『期間限定の思想』へのトラックバック
トラックバックURL:





